科学の中心課題は因果関係の解明である。ところが因果関係は目に見えない。電子顕微鏡で見ても、DNA分析をしても見えないのだ。目に見える、あるいは確認できるのは、原因と考えられる先行する事象が起こったことと、結果と考えられる後続する事象が起こったことのみである。したがって、経験されたデータを整理し、「推論」しなければ明らかになってこない。因果関係について考え・言葉で記述すること、これを因果推論と言う。因果関係を考えるには方法論が必要であり、因果関係を言葉で記述するには語彙が必要である。医学においてこの方法論と語彙を提供するのが疫学である。
疫学は、一九五〇年代のがんや慢性疾患の研究の発達を契機に大きく進歩してきた。特にその理論の一九七〇年代からの発達は目覚ましいものがある。後に紹介するように、世界保健機構(WHO)の研究機関である国際がん研究機関(IARC)が、ヒトにおける発がん物質を分類し始めたのもこの頃である。ある物質がヒトでがんを発生する原因なのかどうかということを記述し始めたことになる。理論の発達と応用の展開で、疫学はヒトにおける因果関係を記述するための豊富な言葉と技術を持ち始める。
現在の日本において、ヒトにおける因果関係に関して生じている様々なトラブルのほとんどは、この「言葉」を持つ人と、持たない人(持たないのであるからそのような言葉が存在することすら知らない)との間の議論が咬み合わないことにほとんど起因する。そして最大の問題点は、日本政府つまり、環境省、厚生労働省、そして今回の電磁波の問題では、経済産業省、総務省、文部科学省が、その言葉を持たない側にしばしば回ってしまうことである。その根底には、日本の医学部が「言葉」を持たないまま、因果関係の問題に踏み込まずに経過してきたという実情がある。
欧米の先進諸国における現代の環境政策の決定は、科学的事実に基づいて行なわれることが多い。その典型が、疫学調査に基づいて影響を定量化、メタ分析・決断分析・費用効果分析という流れである。もちろん、自然科学的証拠が提出される環境政策でも、科学的根拠と経済的事情のみで政策が決定されるわけではない。しかし、多くの当事者が集合して直接話し合う際に議論の共通材料になることは疑いない。一方日本は、当事者が直接話し合うことによって合意を形成してゆくというスタイルをまったくとらない。官僚が選んだ「第三者」「有識者」という、他人事でしかない人たちばかりが集まって、官僚から与えられた資料を読んで議論する。これでは結論は最初から決まっている。
そもそも、政策決定、特に保健医療領域や環境保健領域において、科学的根拠に基づいて政策決定を行なうことに慣れていない日本の行政官には、科学的データや科学的根拠の読み方が浸透していない。そのため、科学的根拠を持つ政策へと転換する方法が分からなくなってしまう。政策に科学的根拠が生かされないとしたら、好みの問題や政治的力や政権への近さを「根拠」とする旧来の政策決定と同じことになってしまう。本項では、高圧送電線の電磁波による小児白血病発生への影響の問題を解説しながら、科学的根拠と政策決定の日本における問題への視点を提供できればと思う。
最初の論文――ワルトハイマーとリーパーの論文
高圧送電線の周辺の住民、特に小児にがんが多発していることが最初に報告されたのは、一九七九年のことである。特に白血病・リンパ腫・脳腫瘍などに増加傾向が見られ、白血病と脳腫瘍がはっきりとした増加を示していた。ワルトハイマーたちはコロラド州デンバー市周辺の地域で、一九四六年から一九七三年に生まれた人で一九五〇年から一九七三年に一九歳までにがんで死亡した人々を症例として、同じ一九四六年から一九七三年に生まれた人から対照を選択して症例対照調査を実施した。この調査で用いられた電磁波曝露の評価方法は、調査対象者の近くを通る送電線の形状から行なわれたものである。送電線の電流が推定され、そこから電磁波が推定された。この種の研究では電磁波曝露をどのように評価するのかが一つのポイントなので、この電磁波の評価方法には批判もあった。これ以降の研究では電磁波の評価方法が一つの争点であり研究の改良点の大きな注目点となった。
なお、本稿では話題を、高圧送電線からの電磁波曝露による健康影響に限っている。電磁波の発生源は、以下に述べるように多岐にわたっている。発生源に応じて周波数も異なる。そのうち、五〇ヘルツもしくは六〇ヘルツの低周波の電磁波が高圧送電線からの電磁波である。なおこの電磁波曝露は環境曝露で、一般住民が曝露されているものであるが、電磁波による健康影響に関しては、強い電磁波に就業中に曝されている労働者に関する職業病の調査も行なわれていて、様々な報告があり脳腫瘍や白血病などの多発の報告がある。二〇〇六年には、スイスの国鉄の労働者に関しての疫学調査が発表され、電磁波曝露が少ない職種に比べて電気機関車の機関士などに白血病が多発しているという報告が国際学会でなされていた。
電磁波の基礎知識
人体への影響は普通、物理的影響・化学的影響・生物学的影響の三つに分類されて整理される。電磁波はこのうち、熱や音と共に物理的影響に分類される。非電離性から電離性に波長の長さで連続する電磁スペクトラムの中で、さまざまな性格を持つ(図)。その発生源も、波長が長いものから順に、送電線・AMラジオ・FMラジオとテレビ・電子レンジ・赤外線温熱器・アーク溶接・医療用X線・放射能物質と分布する。
電離性放射線の影響は、脱毛、下痢・嘔吐、出血などの急性影響に関しても、がんなどの慢性影響に関しても、比較的よく知られている。電離性放射線はエネルギーが非常に大きく、生体への影響は比較的はっきりしていて、その急性影響は他者からも認識できやすい。一方、波長が長くなるにしたがって電磁波は我々にとって身近なものとなる。電気コタツや電子レンジ、あるいはラジオやテレビの電波である。電離性放射線において白血病などのがんが起こることは、専門家でなくてもよく知られているが、波長が長くエネルギーが低い生活周辺の非電離性の放射線の電磁波でも白血病などのがんが生じることは知られていない。近年問題になっているのは、波長の極めて長い送電線周辺の電磁波により生じるのかどうかである。
先進諸国では、後に紹介するカロリンスカ研究所による疫学研究の結果が一九九三年に広く伝えられ、多くの市民がこの問題を知るようになり、高圧送電線の周辺に学校などの小児の施設を作らないなどの対策がすでに一九九〇年代から行なわれている。ところが日本国内の情報の伝わらなさは、海外居住者がいぶかるほどのものである。日本独自の事情を考えざるを得ない。
疫学の推論
科学的根拠に基づいた医療のことをEBM(Evidence Based Medicine)と言って、今日では医学・医療を論じるときの基本的な考え方を形成している。このEBMの基本的考え方は疫学的方法論に基づいている。医学の場合、科学的証拠とは、人間観察に基づく疫学的方法論に基づいた証拠ということになる。疫学的証拠の基本は、2かける2表の構成と、そこから算出される疫学的指標である。疫学で設計する調査計画を、研究デザインという。研究デザインには、コホート研究、症例対照研究、横断研究などにおいて2かける2表を構成することが可能になる。がんの疫学で主に使われる症例対照研究の疫学的指標となるのがオッズ比である。以下に、疫学で使われる用語を簡潔に説明し、その上で症例対照研究という研究デザインについて説明し、ワルトハイマーとリーパーの論文のデータの読み方を示す。
医学における因果関係を推論するための方法論を提供するのが疫学であると説明した。疫学では、因果関係のうちの原因側の総称として通常、曝露という用語を用いる。結果の側は、病気であることが多いので、疾病という用語を用いることが多い。因果関係を具体的に描き出すために最低限必要なのは、個々の調査対象者の曝露と疾病に関する情報である。曝露が「ある」と「なし」、疾病が「ある」と「なし」の、それぞれ2通りであると簡略化すると、その組み合わせは2かける2、すなわち4通りになる。調査対象者がこの4通りのどれに該当するかを判断し、それぞれ振り分け表にしたのが、疫学分析の基本となる2かける2表である(次頁表1)。この表を構成することにより、曝露を受けなかった人たちに比べて、曝露を受けた人たちにおいて「何倍」疾病が多発しているのかという情報が入ることになる。疫学者の役割の一つは、この「何倍」という数字を測定するための理論や技術を工夫して、できるだけ正確に測定することである。結果を繰り返し観察し、因果関係を判断することは、誰もが日常生活で行なっていることである。疫学はそれを簡潔な表に具体的な数字で表現しているのである。
ところでこのような2かける2表を構成するために行なえる調査方法は、大きく分けて2種類ある。まず思いつくのは、曝露があった人(a+c人)と曝露がなかった人(b+d人)を追いかけてその疾病の発症状況を比較する方法である。普通の動物実験の方法でもある。薬の効き目の検証(治験)も基本的にこの方法論に基づいている。これをコホート研究デザインと呼ぶ。
一方、疾病にかかった人(a+b人)と疾病にかかっていない人(c+d人)がそれぞれ曝露していたのか否かを調査し、曝露状況を比較する方法も考えつく。これを症例対照研究デザインと呼ぶ。症例対照研究においても、曝露しなかった人に比べて、曝露した人において「何倍」疾病が多発したのかという数字を推定できる。オッズ比を用いるのだ。オッズ比は(a×d)/(b×c)(倍)で計算する。この数字の解釈は、あくまでも曝露しなかった人に比べて曝露した人において「何倍」疾病にかかった人が多いのかということである。
電磁波曝露と小児白血病の問題では、この症例対照研究デザインが用いられる。なぜなら、がん、特に白血病は比較的頻度の低い病気なので、c人に比べてa人ははるかに少なく、d人に比べてb人ははるかに少ない。したがって、曝露があった人(a+c人)と曝露がなかった人(b+d人)を追いかけるより、疾病にかかった人(a+b人)と疾病にかかっていない人(c+d人)の曝露歴を調べるほうが、はるかに効率が良いのだ。
さて、ワルトハイマーとリーパーの論文の中のメインの表を見てみよう(表2)。高圧送電線の近くではそうでないところに比べて、約三倍(オッズ比2・98)、白血病が多発していることが分かる。「95%信頼区間」とは、この区間に九五パーセントの確率で真の倍率がありそうな幅を持って推定した値である。このうちの低いほうの値(1・72)が一より大きいと、いわゆる統計学的に有意な差をもって倍率の上昇があったということである。つまり、この場合も統計学的有意差が観察されている。
その後の疫学研究
このワルトハイマーとリーパーの論文以降、調査方法が改善されながら、さまざまな論文が発表されてきた。一九九三年、スウェーデンのカロリンスカ研究所から、高圧送電線と小児白血病に関して画期的な研究がアメリカ疫学雑誌の巻頭論文として発表された。この研究は、スウェーデン全土のがん登録に基づき一九六〇年から一九八五年までの全国民のデータを利用して行なわれた。まさに全国民を可能な限り長期間追跡していることになるのである。北欧以外の国ではほぼ実現不可能な完璧な調査と言える。曝露のデータは、自宅前での測定と一九五八年から一九八五年までの各自宅から高圧送電線までの距離情報から磁場を計算した値の二種類が用いられた。スウェーデンは、長距離送電線が全て住民の頭上を通るので、曝露評価がシンプルに行なえた。
一五歳以下の一四二例の白血病・脳腫瘍・リンパ腫などの症例と五五八例の対照が詳細に調べられた結果は、表3の通りである。推定電磁波に関しても、距離に関しても、白血病の多発が認められた。しかし、自宅前の一度きりの測定に関しては、はっきりとした関連は出なかった。白血病に関する結果は、ワルトハイマーとリーパーの論文の結果を支持するものであった。この調査結果を受けて、クリントン大統領が記者会見を開いたと記憶している。国民の健康問題に対する政府の姿勢の違いが窺える。これ以後、海外のメディアでは、子どもの施設を高圧送電線の近くに作らないといった対策が報じられることが多くなっている。国民の関心も高まっていったのである。
一方、小児白血病(急性小児リンパ球性白血病)と電磁波の関連の証拠はほとんどないと結論づけた研究も現れた。一九九七年にニューイングランド医学雑誌に発表されたアメリカ国立がん研究所の研究である。当時、日本の新聞にも、これぞ結論とばかりに報道されていたのを記憶している。しかし、結果の表を見ると、なぜこの論文が「ほとんど証拠がない」と結論づけたのか理解できないのである。カロリンスカ研究所の研究よりやや倍率が低いものの、似たような結果が示されているのだ。特に、〇・四マイクロテスラ以上では三倍以上の非常にはっきりした急性リンパ急性白血病の多発が生じていることが見られる。「ああ、やっぱり多発するのか」というのが当時の強烈な印象である。この論文の結果と結論のずれは、世界の多くの研究者から指摘されている。疫学では○○倍という定量的な数字とデータを論文に示すので、著者がたとえ誤った結論を書いたとしても、世界中の研究者がきちんとチェックできるのである。
メタ分析とWHO勧告
一九九〇年代に個々の研究が相当数出そろってきたので、それらの研究の結果を総合する動きが出始めた。このように多くの研究結果を整理し、必要であれば統合し共通の倍率を計算したりする研究を、メタ分析、あるいはプール分析(統合分析)と呼んだりする。現代の疫学研究では、環境の分野、薬や治療法の効果の分野など、どの疫学分野でも普通に進んでゆく流れである。誰しも判断を行なうための材料を絞っていきたいのである。その中で、最もよく知られているのが、二〇〇〇年にイギリス癌学会誌に発表されたプール分析である。カロリンスカ研究所のアールボムらが行なったものである。アールボムは一九九三年のスウェーデン全土で行なわれた研究の共著者でもある。カナダ・デンマーク・フィンランド・ドイツ・ニュージーランド・ノルウェー・スウェーデン・アメリカ・イギリスでの質の良い研究データを用いて、〇・四マイクロテスラ以上で二倍(95%信頼区間で1・27倍〓3・13倍)という倍率を推定している。多発は起こっていたのだ。
さて、これらの諸研究やメタ分析の結果を踏まえて、二〇〇七年六月、WHOは〇・三〓〇・四マイクロテスラで小児白血病が多発していることを認め、がんなどの長期的影響への予防対策を勧告し、電磁波レベルの表示を義務づけることなどを含め、各国に市民の電磁波曝露を減らすための法律を整備するように求めた。これに対して、日本国内では経済産業省が自ら選んだ専門家を集めてワーキンググループやシンポジウムを開いているが、短期的影響の基準として一〇〇マイクロテスラ(五〇ヘルツの場合)を導入し、長期的影響に関しては規制しない方向に進もうとしている。国際的な流れとは大きな開きである。
兜研究
日本でも、同様の研究が国の研究費で大規模なものがひとつだけ行なわれた。国立環境研究所の兜真徳氏らが、関東地方・中部北陸地方・関西地方・中国九州地方で行なった全国的研究である。この研究結果は、がん関連のトップジャーナルの一つ、国際がん誌に二〇〇六年に発表された。〇・四マイクロテスラ以上で急性リンパ急性白血病が四・七倍(95%信頼区間:1・15倍〓19・0倍)多発していた。内容を読めば分かるが、非常に凝った研究である。
問題は、この研究が二〇〇三年に途中で文部科学省から研究費を打ち切られたことである。その打ち切りの方法は、今日ではかなり有名になっているが、後に国際的なトップジャーナルに掲載されるような研究に対して、文部科学大臣の諮問機関「科学技術・学術審議会」が最低評価、C判定を食らわしたのである。そしてもっと問題なのは、電力会社各社が、兜氏らの研究がトップジャーナルに掲載されて評価を得ていることではなく、この文科省からC判定を出されたことをおおいに宣伝に利用している点である。
事の経過は『告発・電磁波公害』(緑風出版)に朝日新聞記者の松本健三氏が詳しく紹介している。このC判定が決定されたヒヤリングは二〇〇二年一一月に行なわれている。ヒヤリングを行なった健康・医療研究評価WG委員は、田中平三(主査・国立健康・栄養研究所理事長)、犬伏由利子(消費科学連合会副会長)、小田光茂(宇宙開発事業団技術研究本部)、小野寺節(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)、上野川修一(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)、小濱啓次(川崎医科大学救急医学教室教授)、佐藤知正(東京大学大学院情報理工学系研究科教授)、多氣昌生(東京都立大学大学院光学研究科教授)、田嶼尚子(東京慈恵会医科大学糖尿病代謝内分泌内科教授)、林勝彦(NHKエンタープライズ21エグゼクティブ・プロデューサー)、眞柄泰基(北海道大学大学院工学研究科教授)、丸山一郎(埼玉県立大学教授)、吉岡亨(早稲田大学人間科学部教授)、渡邉正己(長崎大学大学院医歯薬学総合研究科教授)である。
国際トップジャーナルに載る研究に最低評価を食らわしたのだから、この人達は、よほどの学識をお持ちの方々と思われるかも知れない。しかし、肩書きからすると疫学の基礎知識を持っているのは、主査の田中平三氏だけである。その田中平三氏も教授を退官した後の元教授である。しかも彼はヒヤリング当日に所用のため欠席していた。つまり、小学生多数が、大学の先生の研究に最低ランクを食らわしたようなものなのである。文部科学省は相当激しいことをやったのだ。コメントにも「なぜ小児に限定したのかがよくわかりません」、「研究自体のオリジナリティが感じられない」、「リーダーシップ不足を感じました」、「逆の意味で高圧線下の人々にいたずらな恐怖を与えた」というような、専門家でなくても分かるほど的外れなコメントばかりである。
当時はまだ国際トップジャーナルには掲載されていず、兜氏らが書いた中間報告書があるのみである。しかし、この中間報告書を読めば、それなりの医学雑誌に掲載されるであろうことは疫学の研究歴がある者なら分かる。世界で注目されている重要な課題で、かつ日本で初めてのテーマの研究を、大規模に定型的に行なっているのだ。なかなか予定通りに進まないことが多い疫学研究を、中間報告にきちんと結果が報告できる程度までに仕上げた研究に対して最低ランクのC評価を与えられたら、他の研究者は震え上がるだろう。通常はあり得ない判断である。松本氏の取材によると、出席した委員のうち事前に中間報告を読んでいたのは一人だけだそうである。
もう一人、最低ランクを与えた集団を指揮したと思われる人物がいる。文部科学省がん研究調整官であった原徳壽氏(現・厚生労働省保険局医療課長)だ。医学部出身で医師であるキャリア官僚である。公開されたヒヤリングの議事録には、まるで委員の一人のように兜氏を追及する原氏の発言が残っているヒヤリングの直前に、彼は疫学調査の担当事務局であるライフサイエンス課に異動していた。この原氏は、このポストに就く前は、環境庁特殊疾病対策室長として水俣病裁判の担当者であった。当時、水俣病問題は政治解決による和解を唯一拒否した水俣病関西訴訟の審理が、大阪高等裁判所で進んでいた。水俣病関西訴訟では疫学に関する議論も行なわれていた。そこで様々な新しい事実が判明してくるのであるが、それを一手に処理していたのが原氏である。結審直前に、審理していない新しい証拠を出して主張を展開するなど、相当強引なことをしていた。このような経歴の持ち主であるから、疫学が全く分からない委員に対して、主導的な役割を果たすのはいとも簡単だったと思われる。
問題は電磁波だけではない
高圧送電線による電磁波曝露による小児白血病発生への影響を中心に解説してきた。しかし、この問題で起こっていることは、水俣病、大気汚染問題など他の環境問題でも起こっていることである。構造が同じだからである。構造を論じるのであれば、環境問題に限らず薬害問題でも同じである。つまり、官僚が集めた「専門家」「有識者」(私はこれを「学者」と呼ぶことが多い)と事務局である官僚だけから構成された委員会で何らかの決定が行なわれ、それが政策となる構造である。そして、一般市民のみならず、海外の動きや科学的根拠に基づいて意見を述べる者の意見さえ排除され、政策決定には全く反映されないという構造である。これは、現代社会において、あるいは一応民主主義国家であるはずの日本において非常に異質に映る姿であるが、よく見られる光景である。
この問題を、私は『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(岩波書店)で水俣病問題を題材にして描いてきた。この本で描いているように、今日での欧米での環境政策の決定プロセスは、日本でのそれと大きく異なる。関係行政官、関係研究者、当事者が全て参加して、直接話し合い、日程を決めて、文書を出し合いながら政策を決めていくのである。このようなプロセスは、テキストにも記載され、海外では大学でも講義されているものと思われる。
科学的データに基づいて政策判断をすることは、そんなに難しいことではない。科学的データの読み方も「何倍」多発しているというその数字を読み取るだけである。ましてや電磁波もしくはがんの問題のように国際的に共通した問題は、各国からたくさんの研究が提出され、その研究を集積したメタ分析も複数出てくる。その上で、世界保健機構などの機関が専門家を集めて検討までしてくれてその過程と結果を発表してくれる。わざわざ、日本だけがそれに背を向ける必要などないのだ。
この問題に限らず、公害問題や職業病の問題などで、日本の官僚は特に科学的根拠もないのに、世界的な勧告に背を向けてきた。例えば、職業病のじん肺の原因となるシリカ曝露が肺がんを起こすことについての国際がん研究機関の決定の際には特に証拠もないのに「政治的で非科学的な決定だ」とオフレコで言っている場面に出くわしたこともある。しかしその意見は公にはされず、黙って対策を先送りにする。
もともと、情報公開・自由な意見の表明という科学の原則から外れて、政策は、転勤後一、二年の官僚が慣習に従って選んだ学者が官僚の描いた図に従ってほぼ匿名で意見を述べて形成されているのが実情だ。これでは、官僚と学者の背後に隠れて、誰がどのような理由で反対・賛成を述べているのか全く分からなくなってしまう。大気汚染による人体への影響という別の分野での話ではあるが、日本で三五年近く変更されずにいる大気汚染基準を欧米並みの基準に変更することに反対している勢力が国内にあることを、筆者も最近知って非常に驚いた経験がある。誰がどのような理由で科学的政策推進に反対しているのかを知らなければ、説得の機会すら生まれない。もしかしたら相手が情報不足や誤解したままで反対している可能性すらある。
国際的に共通した健康影響の問題で、国際的な議論が進んでいる場合には、日本国内で独自の言い訳を、言えば言うだけ立場が科学的でないことが明白になる。日本の官僚は、科学的トレーニングを受けていないうえに、急速に形成されてきたこのような政策形成の方法に慣れていない。情報公開と科学的議論と科学的政策が根付かないままだと、同じことが様々な問題において繰り返され続けるだろう。
電磁波と高圧送電線・何が問題なのか
#P
世界SEKAI2008.5
#P
21世紀の環境問題
電磁波と高圧送電線・何が問題なのか
津田敏秀
表1
距離に関して
推定電磁波に関して表3
表2 1976〓1977年のコロラド州のデータ
オッズ比2.98倍(95%信頼区間1.72〓5.15倍)
曝露あり
曝露なし
疾病あり
a人
b人
疾病なし
c人
d人
101m以上に比べて
51〓100m
50m以下
白血病
1.1倍(95%信頼区間0.4〓2.7)
2.9倍(95%信頼区間1.0〓7.3)
0.09μT以下に比べて
0.1〓0.19μT
0.2μT
白血病
1.5倍(95%信頼区間0.3〓7.4)
3.1倍(95%信頼区間1.1〓8.6)
曝露あり
曝露なし
疾病あり
63人
92人
疾病なし
29人
126人